◆◆◆◆◆
遥がこの世界に召喚されたとき、最初に驚いたのは、言葉の違和感がまったくなかったことだった。
王国の言葉を話す人々の声が自然と耳に入り、自分の口から出る言葉も違和感なく通じる。
文字も問題なく読めたし、歴史や地理といった基礎的な知識も、まるで生まれたときから知っていたかのように頭に入っていた。
聖女は世界に適応する力を持つ。
神殿の者たちからそう説明され、遥も納得するしかなかった。
だからこそ、最初は特に疑問を抱かなかったのだ。
しかし――
「なんで古代語だけ読めないんだ……」
図書館で広げた書物を前に、遥はため息をついた。
この国の歴史書や魔王討伐に関する文献には、時折古代語が使われていた。
遥が知りたい情報が書かれていると思われる箇所ほど、意味不明な文字がずらりと並んでいる。
聖女としての力が失われた今でも、王国の言葉は読めるし話せる。
しかし、古代語だけは最初から理解できなかった。
遥は頬杖をつきながら、机の上に散らばった書物を睨む。
「……どうにかして読めるようにならないかな」
何か方法があるはずだ。
そう思いながら、頭の中でゲームの記憶を辿る。
ゲームの中では、物語の後半で「古代語を読めるアイテム」が登場していた。
それは――
「……赤い宝石……」
遥は眉をひそめた。
確か、王族の宝物庫に保管されているはずだった。
貴重なアイテムで、ゲーム内では王族の信頼を得ることで入手できたはず。<
◆◆◆◆◆王城の回廊を歩いていたコナリーは、懐かしい顔に出会った。魔王討伐で共に戦った魔法使い、エドワードだ。「やあ、コナリー。久しぶりだな。」「エドワード、お前も王都にいたのか。」「最近は宮廷魔導士としての仕事が増えてね。お前も軍務顧問として忙しいんだろう?」「まあな。」軽く言葉を交わす二人だったが、エドワードはどこか誇らしげな笑みを浮かべていた。「実は報告があるんだ。」「報告?」「契約した聖女と婚約した。」コナリーは目を見開いた。「……婚約?」「そうだ。魔王討伐を終えて、改めてお互いの気持ちを確認したんだ。契約の時点で強い絆があったからな。今度は正式に、将来を共にすることにした。」「……そうか。」エドワードは少し照れくさそうに笑った。「お前もどうだ? 契約していた聖女と、そういう話はないのか?」「……遥とは、そういう関係ではない。」即答したものの、自分の言葉にどこか引っかかりを覚える。エドワードは肩をすくめて笑った。「まあ、今はそうかもしれないがな。」「……おめでとう。幸せにな。」「ありがとう。じゃあ、またゆっくり話そう。」軽く手を挙げ
◆◆◆◆◆「遥、どうかしましたか?」コナリーの落ち着いた声が響き、遥とルイスの肩がわずかに跳ねた。遥は一瞬コナリーの方を見たが、すぐに視線を逸らしてしまう。その態度にコナリーはわずかに眉を寄せる。そして、コナリーがさらに一歩近づいたその瞬間――ルイスが静かに遥の肩を引き寄せ、耳元で囁いた。「私に話を合わせてください、遥。」驚く遥だったが、ルイスの表情を見て、意味を察する。――今は本当のことを話すわけにはいかない、と。わずかに戸惑いながらも、遥は小さく頷いた。◇◇◇「遥、顔色が優れませんが、大丈夫ですか?」コナリーは心配そうに尋ねる。「……いや、大丈夫だよ。」視線を彷徨わせながら答える遥だったが、コナリーは疑念を拭えなかった。何かがおかしい――そう感じたのだ。そして、ふと遥の手元に視線を落とす。「――その指輪は?」コナリーの低い声が響く。遥は思わず左手を引っ込めたが、コナリーの視線は鋭く、逃がさなかった。彼の指輪を見つめる瞳には、明らかな動揺が浮かんでいた。「ルイス様……その指輪、遥に贈られたものなのですか?」沈黙が流れる。その一瞬の間に、遥の鼓動は早鐘のように鳴った。どうする? 何と言えばいい?
◆◆◆◆◆庭園を抜け、王城の内部へと足を踏み入れると、そこには冷たい石造りの廊下が続いていた。「さあ、こちらに。」ルイスの声が静かに響く。遥は戸惑いながらも、彼の後に続いて王城の廊下を歩いた。王族の居住区であるこのエリアは、他の区画とは明らかに違う。絢爛たる装飾が施された柱や壁、天井には精巧な彫刻が施され、随所に王家の威厳を示す紋章が刻まれている。(すげぇ…やっぱ王族の居住区は豪華だな)遥は緊張しながらも、好奇心が隠せずに周囲を伺う。城内は静まり返っていたが、それでも衛兵たちが定間隔で配置されており、遥はその威圧感に思わず身を引き締める。やがて、ルイスが歩を止めると、目の前には重厚な扉がそびえていた。扉の両脇には、王家直属の近衛兵が立っている。二人とも鋭い視線でルイスと遥を見つめていたが、ルイスが一歩前に進むと、すぐに敬礼をした。「殿下、お帰りなさいませ。」「ご苦労。」ルイスは短く答えると、静かに続ける。「この者と話がある。しばらくの間、部屋の外には誰も近づけるな。」「承知いたしました。」近衛兵たちは頷き、一歩後ろへ下がると、扉の前から移動した。ルイスは扉に手をかけ、軽く押し開く。「さあ、入りなさい。」◇◇◇ルイスの自室は、王族らしい品格を感じさせる空間だった。「お邪魔
◆◆◆◆◆「魔王の小指!? 冗談だろ?」遥は驚愕し、反射的に左薬指の指輪を外そうとした。しかし、指輪は外れる気配すらなく、まるで遥の指の一部になったかのように馴染んでいる。「私も冗談でこんな話をするほど暇ではない。」ルイスは腕を組みながら、低い声で続ける。「王は、これはただの宝石ではなく、魔王の小指が封じられている指輪だと言った。そして、“王都にある方が危険”だとも。」「王都にある方が……危険?」遥は眉をひそめた。「そうだ。それゆえに、王はこの指輪を魔王領へ戻すよう私に命じた。」「戻すって……魔王領に放置しろってことか?」「そういうことだな。」遥は言葉を失った。――魔王を封じた指輪を魔王領に放置するのは危険だ。直感的にそう感じた。しかし、王が決めたのだから何かしら理由があるのだろう。そう自分を納得させようとしたが――「待てよ、それじゃあ――」遥は自分の指に嵌まった指輪を見つめる。「俺、このまま魔王領まで指輪ごと運ばれるってことか?」「それも選択肢の一つだが……問題は、指輪を外せないことだ。」ルイスは指を組みながら、じっと遥を見つめた。「遥、何度やっても指輪は外れないのか?」「……ああ。ダメだ、びくともしない。」遥は指輪をつまみ、捻ったり引っ張ったりしてみ
◆◆◆◆◆ルイスの部屋を出る前、遥は改めて自分の左手を見下ろした。その指には、未だ外れない赤い宝石の指輪が光っている。「……これ、やっぱり目立つな」遥が小さくぼやくと、ルイスが手袋を差し出した。「そのための手袋だ。今からは常に着けておくようにしろ。」遥は手袋を受け取りながら、少し困惑する。「手袋も悪目立つする気がする。」ルイスは微かに笑みを浮かべながら言った。「王家の紋章が刻まれた手袋だ。不審に思っても、無理に外そうとする者はいない」「まあ、そうだろうけど…」遥は渋々ながらも、言われた通りに手袋をはめる。指輪が見えなくなったことに、少しだけ安心する気持ちもあった。だが、元々はルイスの手袋のため、遥の手のサイズには合わずブカブカしている。「ブカブカしてる」「遥のサイズにあった手袋を用意する。それまでは我慢してくれ。」「分かった……手袋を嵌めている理由を尋ねられたら?」「手の火傷を隠すためだと言えばいい。」「……火傷ねぇ。」遥は苦笑しながら、手袋を指先までしっかりとはめた。それを確認したルイスは、満足そうに頷いた。「さて、遅くなったな。部屋まで送ろう。」「送らなくていいよ。王城の中だし、一人で歩ける。」
◆◆◆◆◆ルイスの背中が廊下の向こうへと消えていくのを見届けた遥は、そっと息をついた。――コナリーには指輪のことを話せない。ルイスにそう忠告されたばかりで、胸の奥に得体の知れない重たさが沈み込んでいた。それでも、目の前にいるコナリーの姿を見た瞬間、その迷いは一時的にかき消された。「コナリー。」「お帰りなさい、遥。」コナリーの声は温かくて、遥は思わず笑みを浮かべた。「いつから待っていたの?」「そう待ってはいません。」コナリーは穏やかに微笑んだ。その表情は変わらず優しく、遥の心をほっとさせる。――けれど。コナリーの視線がふと遥の手元へと向かう。「それよりも……その手袋は?」「……!」予想していた質問だが、遥は思わず左手を握りしめ身構える。「火傷をしたんだ。」できるだけ平静を装いながら答えたが、一瞬の間ができたことを、コナリーは見逃さなかった。「火傷……?」コナリーの表情が曇る。「傷を見せてください。治療はされましたか?薬は?」矢継ぎ早に問いかけるコナリーに、遥は苦笑しながら手を振った。「大したことないって。すぐ治るさ。」「ですが――」
◆◆◆◆◆コナリーは、遥の向かいに座りながら静かに紅茶を見つめていた。目の前には、いつも通りの遥がいる。だが、どこか遠くなったような気がしてならない。――指輪のことを話してくれないのか、遥。契約を交わしていたときは、互いの痛みを感じ、まるで体が重なるような感覚さえあったのに。それが今は、まるで目の前に見えているのに手が届かないような、そんなもどかしさがあった。遥が自分から離れていく。その現実を突きつけられるたび、コナリーの胸は締めつけられるようだった。(私は……遥の何なのだろうか。)聖女と契約した騎士――かつてはそうだった。だが今は、ただ王国の騎士として彼を守るだけの存在になってしまったのだろうか。その答えを探すように、彼は別の話題を振ることにした。「……今日、王城内でハリーと会いました。」「ハリー?」遥はカップを口に運びながら、小首を傾げる。「魔法使いの?」「ええ。」コナリーは頷く。「彼は契約聖女の夏美と婚約したそうです。」「えっ……!」遥は目を丸くした。「ハリーと夏美が!? 婚約?」「はい。魔王討伐を終えた後も二人は交流を深め、先日、ハリーが求婚し、受け入れられたとのことでした。」
◆◆◆◆◆「私は本気です。」コナリーの言葉が静かに響いた。遥は思い切り紅茶を噴き出し、咳き込みながらコナリーを見つめる。「お、お前……何言ってんの?」慌てて袖で口元を拭いながら、遥は混乱したまま言葉を探した。「だって、お前、俺が女でも男でも関係ないって……そりゃ、そういう考えの人もいるだろうけどさ。冗談だろ?」「冗談ではありません。」コナリーはまっすぐ遥を見つめ、静かに答えた。「私は、遥がどのような姿であろうとも、貴方を大切に思っています。」「……っ」遥は言葉に詰まる。普段と変わらぬ静かな口調。けれど、その言葉に宿る真剣さが、遥の胸を妙にざわつかせる。冗談なんかではない。コナリーは本気でそう言っている。曖昧に笑って誤魔化そうとしたが、コナリーの表情を見て、それができる雰囲気ではないことを悟る。「……いや、でも、俺は男だし?」「それが何か問題ですか?」「えっ……」コナリーはわずかに首を傾げる。「貴方が女性ならば婚約する可能性があった、と貴方は言いましたね。」「あ、あれは冗談で……」「貴方が女性だったら婚約を考えたのですか?」「
◆◆◆◆◆二人のやり取りを少し離れた場所で見守っていたルイスは、ふと視線を逸らした。「コナリー、遥を頼む。私たちはここで調査を続ける」「承知しました」「それと――」そう言いかけて、ルイスは一歩だけ近づくと、遥の頬にそっと触れた。「……体調が戻るまで、無理はするなよ。顔色が、まだ少し悪い」「……う、うん……ありがとう、ルイス……」ルイスの優しい気遣いに顔を真っ赤にしながらも、遥はコナリーの腕の中で小さく息を吐いた。◇◇◇そのまま、コナリーに抱きかかえられて部屋へと向かう。扉が閉じられ、静かな寝室に入った瞬間、空気がふわりと和らいだ。ベッドに優しく降ろされた遥は、コナリーの顔を見上げた。「……なにか、見たのですか?」コナリーの問いに、遥は思わず目を伏せた。幻で見た全てを――カイルの封印を解く方法を、自分が知っているということを、今ここで言うべきなのか。躊躇いと、恐れと、罪悪感。その狭間で言葉を選べずにいると、コナリーはそっと遥の髪を撫でた。「無理に話さなくても大丈夫ですよ、遥」その声音は柔らかく、包み込むようだった。
◆◆◆◆◆白の空間に戻った遥は、しばらく何も言えなかった。石化の中で眠る王と聖女の記憶。祈りによって封印が緩むよう仕組まれた術式。その真意。すべてを視た遥の隣に、アーシェが立っていた。彼の表情は、以前よりも穏やかだった。「……これが、すべての始まり。そして、僕がずっと願ってきたことでもある」「願い?」「兄を、カイルを……目覚めさせたい。ずっと、あの暗闇の中で叫んでた。誰にも届かない、ただの祈りのように」遥は視線を落とし、左手の指輪を見つめた。「君は……その祈りの声を、この指輪を通して伝えてたのか」アーシェは小さく頷く。「僕は、あの時――魔王として討たれた。でも、すべてが失われたわけじゃなかった。指輪に残された“僕”は、まだ兄に会いたいと思ってた。……王国を恨んでもいた。でも……」彼はそっと視線を遥へ向ける。「君が……あのとき、手を伸ばしてくれたから。コナリーに力を与えた、あの祈りに……優しさに、触れたから。だから、今の僕はこうして話していられる」遥はその言葉を聞きながら、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われていた。「君の願いは……カイルを目覚めさせること。でも、それって……」「新たな魔王
◆◆◆◆◆再び、記憶が動き出す。白の空間に色が流れ込み、空が、風が、大地が姿を変えていく。視界の中に現れたのは、かつて見た王都とは違う――静かで穏やかな街並みだった。人々の顔には笑みがあり、農地は実り、街には歌声が流れていた。「……これが、竜を倒した後の王国」遥の隣でアーシェがそっと頷く。「しばらくの間、すべてが平和だった。王国は潤い、民は笑い、王と聖女は並んで国を支えた……。直人の知識と、レオニスの誠実さが実を結んだ、輝きの時代だったよ」◇◇◇だが、ある日。空を吹き抜ける風が、突如として刃と化した。街を歩く人々を切り裂き、大地は亀裂を生み、幾人もの命を呑み込んでいった。「これは……何だ……?」レオニスは胸を押さえながら呻いた。魔力が制御できない。力が暴走している。王都では突発的な魔力災害が相次ぎ、人々は怯えて家に閉じこもった。「王が……あの優しかった王が……」人々のささやきは恐れと失望に満ち、やがて王宮を遠巻きにするようになる。直人は、毎日のように王の元に駆けつけた。「俺がもっと、早く気づいていれば……」
◆◆◆◆◆白い光が静かに薄れていく。 空間の端から輪郭がほどけ、淡い光の粒子が舞い始める。 次の記憶が立ち上がる、その刹那――遥はふと、直人が口にした祈りの言葉を思い出した。――光の加護に導かれし絆よ。この誓いに、真の繋がりを宿せ。痛みを半分に。願いを二重に。運命を一つに。(この言葉……)小さく口の中で繰り返すように呟いた瞬間、遥の背を冷たい感覚が走った。(……俺が、コナリーと契約したときの……あの呪文だ)教会の神殿で、あの時、手を取り合い、心を交わした記憶が蘇る。目を見開いた遥は、驚きと共に確信した。同じ言葉、同じ祈り。直人とレオニスが交わしたあの契約の言葉は、自分とコナリーを結びつけた“聖女契約”そのものだった。(まさか……これが、その“始まり”……?)歴史の起点。 この記憶の中にあるすべてが、やがて未来の制度や儀式として形を変えて伝わっていったのだと。「……これが、“聖女契約”の始まりなんだな」遥が思わずそう口にしたとき、彼の隣にふと気配が現れる。そこには、アーシェがいた。ぼんやりと浮かぶ記憶の光を見上げながら、彼は小さく頷いた。「……そうかもしれないね」
◆◆◆◆◆直人が召喚されてから、数週間が過ぎた。初めはただ呆然と立ち尽くしていた彼も、今では異世界の空気にすっかり馴染み、まるで住人のようにこの世界を歩いている。「……やっぱ、面白いな、こういうの」王都を見下ろす丘の上。風を受けて立つ直人の隣では、レオニス王が静かに腕を組んでいた。眼下には、拡張された畑。新たに掘られた用水路。人々が笑いながら働く姿があった。「直人。君の提案を受けて、農地の整備と用水路の延長工事は順調に進んでいる。王都の食料供給は大幅に安定し、農民たちの不満も沈静化した」「でしょ? それに、次は孤児院と病院。住みやすい国ってのは、そういうところから整えるもんだよ」にやりと笑う直人に、レオニスも微かに口元を緩める。ゲーム知識と現代の知恵、それを基にした直人の提案は、王国にとってまさに目から鱗だった。王族や教会関係者、さらには地方貴族までもが、最初は半信半疑で彼を見ていたが、結果を出し続けるうちに、否応なく認めざるを得なくなっていた。もちろん、そのすべてが順風満帆というわけではない。「“異邦の者が口を出しすぎだ”なんて声も、耳に入ってるよ」直人は軽く肩をすくめる。「だが、民の中には君を“聖女様”と呼ぶ者も出てきている。信頼は、確実に広がっている」「いや、あの称号はマジで慣れないって……」ぶつぶつ言いながらも、直人の顔にはどこか誇
◆◆◆◆◆異世界に召喚された青年は、柔らかな光の中で目を覚ました。足元に広がる幾何学模様の魔法陣。周囲を囲む異国の石造りの柱。高い天井には、見たことのない金属細工と文様が描かれていた。「……は? あれ、これって……」黒髪の青年は上体を起こし、天井を見上げたまま呆然とつぶやく。「この構図、テクスチャ素材、光源処理……完全に俺が設定したやつじゃん。え、うそだろ……?」彼の名は直人。ゲーム開発者――だった。「いや待て、ここ……俺のゲームの世界だよな……? あの未完成で納期ぶっちぎった『☆聖女は痛みを引き受けます☆』……マジで!?」直人は魔法陣の上から飛び退くように立ち上がり、視界をあちこち忙しなく動かす。召喚陣の周囲には、数名の僧衣をまとった教会関係者たちが固まっていた。 彼の漆黒の髪と瞳。その異質な姿に、一同は言葉を失っている。「黒髪に黒い瞳……まるで夜の呪いのようだ……」 「本当に、聖女なのか……?」ささやきが広がる中、その沈黙を破るように、一人の男が前へと進み出た。銀白の髪を風に揺らし、深紅の瞳をたたえた長身の男。 その威容はまさに“王”の風格を纏っていた。「下がっていろ。私が話す」堂々とした足取りで青年に近づいたその男は、静かに
◆◆◆◆◆白い光に包まれた遥の意識は、深い場所へと沈んでいく。ふと気づけば、そこには誰の気配もなく、音も色もない、静謐な白の空間が広がっていた。柔らかな空気に包まれながら、遥はぼんやりと立ち尽くす。「……ここは……どこだ?」思わずつぶやいた声は、不思議と反響もなく、空間に溶けていった。「記憶の中だよ。君と僕の、そして……もっと古い誰かの記憶」静かな声が後ろから届く。遥が振り返ると、そこに立っていたのはアーシェだった。白い空間のなかに銀の髪が揺れ、彼の赤い瞳だけがはっきりと色を帯びて見えた。「アーシェ……?」「うん、僕だよ。驚かせたならごめん」アーシェは柔らかく微笑み、静かに歩み寄ってくる。「この空間は、僕たちが繋がったときに広がる、記憶の断層のようなもの。君が“触れた”ことで、過去への道がひらかれた」「……過去って、誰の?」「僕の……そして、僕がかつて触れた“彼ら”の記憶」アーシェは、手のひらをゆっくりと空に向けて掲げた。すると、白い空間に金の粒子が舞い上がり、やがてふたつの人影が形を成していく。――それは、石像だった。王の石像は、背筋をまっすぐに伸ばし、鋭くも静かな眼差しで前を見つめている。威厳に満ちたその顔は、今にも動き出しそ
◆◆◆◆◆白い光に包まれた遥の身体は、重力を失ったようにふわりと浮かんでいた。耳鳴り。心臓の鼓動だけが、遠く、そして近くで響いている。どこまでも白く、静かで、何もない空間――そう思った瞬間、足元に確かな感触が戻ってきた。視界がゆっくりと色を取り戻し、遥は固い石の床に降り立っていた。(……ここは……?)ひび割れた柱。崩れかけた天井。冷たい空気と、どこか祈りのような静けさ。古い――それだけは、確かに感じられた。神殿のようでありながら、重く沈んだ哀しみが空間全体を覆っている。遥の視線が、ゆっくりと前方に向かう。その先に、ひとりの少年が膝をついていた。肩まで伸びる銀の髪。淡い光に照らされたその背は、今にも崩れそうなほど儚く見えた。腕の中には――灰色に変わり果てた、石と化した少年が、静かに抱かれていた。(……魔王、アーシェ……)遥は息を呑んだ。これまで指輪を通して感じていた気配。それが今、こうして目の前で呼吸をし、何かを見つめている。アーシェの顔は穏やかだった。けれどその表情には、耐えるような哀しみが滲んでいた。「……カイル……目を……覚まして……」
◆◆◆◆◆「……やっぱり鍵がかかってる」重厚な金属の扉の前で、遥が取っ手に手をかけて押してみた。微かな振動と共に、内部で何かががっちりと噛み合っている感触が伝わる。「見て。この装飾に仕掛けがある」ノエルが扉の中心にある幾何学模様を覗き込みながら、ぽつりと呟いた。「……思い出した。昔、一度だけ祖父に連れられてこの前まで来たことがある。中には入れてもらえなかったけど、祖父がこの扉を開けるのを、横で見てたんだ」懐かしむような声でそう言いながら、ノエルは小さく頷いた。「扉の仕掛けを解除するのに、少し時間をもらえる?」「危険はないのか?」すかさずルイスが問いかける。ノエルは微笑んだ。「大丈夫。祖父の動きを真似て何度も練習してたから」そう言うと、ノエルは工具袋を取り出し、しゃがみ込む。小さな金属ピンを差し込みながら、複雑な噛み合わせの中で音を拾っていく。「“記録できない歴史は、物に宿る”。祖父の口癖だった。ここには、そんなものが眠ってるんだと思う」ノエルの言葉を背に、遥は手にした革表紙の手帳を開いた。古代語と現代語が交互に記された記録。時折、簡素な図やスケッチが挿まれている。――“封印の地より搬出された石材、地下収蔵室にて保管中”――その記述に、遥の指先が止まる。「……あった。